進捗日記

うまくいくかどうかは関係ない。何事も経験だ。好きな言葉は「ダメもと」です。

📝「本音丸出し」はひとつの個性

 子どもの頃から、人の心の動きとか、行動に至る理由などに興味があった。今でもテレビの番組表を見て、心理学や精神医学関係のものを見かけると録画予約をしておき、時間があるときに観たりしている。

 先日、発達障害を抱えているお子さんのドキュメンタリーをふたつ観た。

 ひとつめの番組に出てきたのは、絵を描くのが得意な高校生くらいの女の子で、絵画展などで受賞もしているのだが、本人曰く「空気が読めないというか、空気を読むことの意味が分からない」とのことで、主に学校生活でのコミュニケーションに支障が出ていて、精神科医のもとに通っている。

 もうひとつのほうは版画を彫るのが好きな十三歳の男の子。すでに版画職人として弟子入りも果たしており、その腕前も見事だ。学校に通えてはいないが、有名国立大学レベルの問題を難なく解いてしまう。大学を受験して欲しいと願う母親に、男の子は「版画がやりたくて、やっていこうと思っているのに、それの何があかんの?」と真正面から問いかける。

 どちらのお子さんも、とてもまっすぐで才能があるのに、生きにくさを感じている。本音でぶつかっているのにうまくいかないのか、それとも本音でぶつかっているからうまくいかないのか。

 私たちはよく「ざっくばらんに話し合おう」とか「本音で語ろう」などと言うが、だったらなぜ本音をストレートに言う彼らが生きにくいのだろう。こう考えると、私たちは実際には本音と建前の狭間で生きていて、本音を出すボリュームを相手によってコントロールしていることが分かる。

 そのどちらがいいとか悪いとか言いたいのではない。それはひとつの個性なのだと思う。だがこのことに限らず、これからの社会を担う若者たちが既存のいろんな枠組みにとらわれて、なぜ窮屈な思いをしながら生きなければならないのかと思う。今までのやりかたがもう合わなくなってきているのではないだろうか。ひとつのことでうまくいかないから、少数派だからと言ってそれぞれのよさを生かしきれずに肩身の狭い思いをするというのでは、あまりにももったいないし、いろんな選択肢があっていいのだと思う。ひとりひとりの個性を尊重しつつ、若者がのびのびと生きることができる社会になっていくことを切に願う。