ぼろは着てても 心の錦
どんな花より きれいだぜ
その昔、水前寺清子さんが歌っていた『いっぽんどっこの唄』にこんな歌詞があった。歌詞を確認するためググってみたら、ルーツは老子の「被褐懐玉(ひかつかいぎょく)」という言葉だそうだ。歌詞の世界もなかなか奥が深い。
「お金」「上品さ」と聞いて思い浮かぶのはこの歌詞と、太宰治の『斜陽』の冒頭に出てくる、お母さまがスウプをひらり、ひらり、と飲む姿、武士は食わねど高楊枝(?)……このくらいしか出てこない。それほど自分にとってはなじみのない言葉だ。
お金があるのと貧乏と、どちらが先がいいかと聞かれれば、迷いなく「貧乏が先」のほうを選ぶ。もともとお金があったのに、そこから貧乏になるのは心身ともに相当こたえるだろうと思うからだ。
私の場合、もともと上品さは持ち合わせていないので、お金がなくなったらただの「みすぼらしい人」になってしまうのが残念なところだが、子どもの頃、家にはほんとうにお金がなかったので、今その心配をしないで済むのはとても幸せなことに感じられる。
もともとお金持ちで、何かの事情で財産を失うことがあっても上品さを保てる人は、いったいなぜそのような心持ちでいられるのだろうか。上品さを保とうとする矜持が自分を支えるのだろうか。お金を失って、なおかつ上品さまで失ってたまるか、としがみつくのだろうか。いずれにしても自分には経験がないので、想像の域を超えることがない。
考えてみたら、上品さというのはお金にならない。お金があっても上品とは限らない。となると、お金と上品さというのはひとつの対極にあるのかも知れない。そのふたつが一対の車輪のようにひとりの上品なお金持ちを支え続けているのだとしたら、お金という片方の車輪が失われた時に、その代わりになるものは何だろう。
もしかしたら、それが「心の錦」なのかもしれない、と思った。たとえば脳の一部に不具合が起きても、脳の別の部分が失われた機能をカバーすることがあるように、お金がなくなった部分に心の錦があてがわれる。心の錦というのは財産を失った上品なお金持ちが生き延びていくための自然な代償作用なのかもしれないと思った。